島伸一教授によるたのしい刑法講座
島伸一教授の編著「たのしい刑法Ⅰ総論」「たのしい刑法Ⅱ各論」を使って刑法・刑事訴訟法を楽しもう

 

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はしがき

はしがき

 2009年11月頃だったでしょうか。私は、ある事件の弁護人として嘆願書を持参し、東京地検公安部検察官室のドアをたたきました。するとわざわざ担当検察官がドアを開けて、「さあ、どうぞ」といいながら笑顔で出迎えてくれました。1階の受付で連絡をとっていたとはいえ、異例の厚遇でした。その検察官は、着席すると開口一番、「先生の『たのしい刑法』で勉強させていただき、検察官になりました」。この言葉は、私にとって大変嬉しいことでした。
 確か、『たのしい刑法』(以下、〔総論〕という)の初版が発売されたのは1998年3月ですから、すでに11年以上も過ぎたわけです。その間、〔総論〕は毎年のように増刷を重ね、2008年6月には[第2版]も刊行し、実に多くの人達に読まれてきました。〔総論〕を読み、刑法を学んだ人達が法律家として各方面に進出し、しっかりと第一線で活躍していてもおかしくありません。
 このような出来事があって、私は、そんなに親しみをもって皆さんに〔総論〕を読んでいただいているのなら、そろそろ『たのしい刑法FLB1』(以下、〔各論〕という)も出版すべきだなと思ったのでした。
 ちょうど今は、かつてないほど急速に進められた刑法や刑事訴訟法などの改正も一段落したところです。裁判員裁判も定着しつつあり、一般市民の刑法に対する関心も高まっています。〔総論〕のような、刑法をはじめて学ぼうとする人達のため、わかりやすくてたのしく勉強できる〔各論〕を刊行するには良いタイミングです。
 さっそく他の執筆者に相談したところ、皆さん同じ思いだったようで、とてもお忙しい方々ばかりなのに、喜んで執筆をお引き受けいただけました。その上、〔各論〕では、新進気鋭の足立友子、山本紘之の両先生にも加わっていただき、〔総論〕と同様、充実した執筆陣で〔各論〕の作成にあたることができました。
 ところで、私は、ここまで刑法を総論と各論と2つに区別して説明してきました。刑法をまったくはじめて学ぼうとする人総論をまだ勉強していない人にとっては、なぜそのように区別するのか、わからないかもしれません。
 そこで、その理由を思いきって一言でいえば、刑法とは、犯罪の成立と刑罰について規定した法律のことですが、その理解を容易にするため、刑法を2つに区別して学ぶのです。つまり、1つは、刑法総論と呼ばれ、各罪(個々の犯罪=たとえば、窃盗罪とか殺人罪など)に共通する問題を取り上げて全体的に考える(たとえば、故意とは何か)ものです。もう1つは、刑法各論と呼ばれ、各罪を文字どおり個別的に考えるものです。どちらを先に学ぶべきかについてはそれぞれ合理的な理由があるので、一概には決められません。もっとも、日本の法学部では前者からはじめるところがほとんどのようです(詳しくは、後の「序章」で説明します)。いずれにしても両者は密接に関係しているものですから、両方を勉強してはじめて刑法を理解したといえるのです。
 ・各論〕の目的・読者層・特徴は、〔総論〕の「はしがき」に書いたところとほぼ同じですから、以下、簡単な説明にとどめます。その目的は、たのしみながら勉強できる、簡潔でわかりやすい〔各論〕の教科書を初学者等に提供することです。ここから、法学部・法科大学院で刑法各論をはじめて学ぶ学生や裁判員候補者・ジャーナリスト・会社の法務部・警察官など刑法の勉強を必要とする人、そのほか刑法に興味がある一般市民の方などに特におすすめします。
 その特徴は次のとおりです。①とかく難解だといわれる刑法の専門用語をできるだけ避けた、やさしくわかりやすい表現と文章。②判例・通説を中心においた、必要かつ十分な説明。③キー・ポイント・チャートや図解による、ビジュアルに優れ要領の良いナビゲーション。④幅広い知識を養うためのトピックの挿入。⑤各章で得た知識を、事例問題をとおして深化させ、司法試験や警察官昇進試験など各種試験への応用力や論述能力を育成するケース・スタディ。
 おまけに、気分転換を図りたくなった読者のために、ケース・スタディとともに大好評のイラストやティー・タイムを〔各論〕でも忘れずに挿入していますので、たのしく学べることは間違いありません。何はともあれ、「序章」から読んでみてください。
 最後に、いつも適切なアドバイスと惜しみない労力を提供し、きれいな2色刷りの『たのしい刑法Ⅱ』を刊行にまでこぎつけてくれた弘文堂の北川陽子さんに、心からお礼を申し上げます。
   2011年2月18日
   島 伸 一
 

目次

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はしがき
著者プロフィール&メッセージ

序章 刑法学への招待 刑法Ⅱの学び方  1
 刑法各論の旅へ/最初の一歩/刑法各論の道しるべ/旅のガイドブック/刑法各論の学び方

第1編 個人的法益に対する罪  7

第1章 生命および身体に対する罪  10
 1.生命に対する罪… 10
  「人」とは/殺人罪(199条)/自殺関与罪・承諾(同意)殺人罪(202条)/堕胎罪(212条以下)/遺棄罪(217条以下)
 2.身体に対する罪… 34
  傷害罪(204条以下)/暴行罪(208条)/同時傷害の特例(207条)/危険運転致死傷罪(208条の2)/業務上過失致死傷罪、重過失致死傷罪、自動車運転過失致死傷罪(211条)/凶器準備集合罪・同結集罪(208条の3)

第2章 人格的法益に対するその他の罪  61
 1.自由に対する罪… 61
  総説/脅迫・強要罪/逮捕・監禁罪/略取・誘拐罪/強姦・強制わいせつ罪/住居侵入罪
 2.名誉に対する罪… 88
  名誉毀損罪/侮辱罪
 3.信用・業務に対する罪… 102
  信用毀損罪/業務妨害罪
 4.秘密に対する罪… 108
  信書開封罪/秘密漏示罪

第3章 財産に対する罪  120
 1.総説… 120
  財産犯とは/刑法における財産/財産犯の全体像/財産犯における「財物」と「財産上の利益」
 2.窃盗罪… 128
  窃盗罪とは/窃盗罪の保護法益/占有とは何か/窃取とは何か/故意と不法領得の意思/不動産侵奪罪/親族間の特例(親族相盗例)
 3.強盗罪… 145
  強盗罪とは/強盗罪の暴行・脅迫/強取強盗罪における奪取行為/強盗罪の客体/事後強盗罪/昏睡強盗罪/強盗致死傷罪/強盗強姦罪・強盗強姦致死罪/強盗予備罪
 4.詐欺罪… 156
  詐欺罪とは/詐欺罪(246条)/電子計算機使用詐欺罪(246条の2)/準詐欺罪(248条)
 5.恐喝罪… 175
  恐喝罪(249条)
 6.横領罪… 178
  横領罪とは/単純横領罪(252条)/業務上横領罪(253条)/占有離脱物横領罪(254条)
 7.背任罪… 192
  背任罪とは/背任罪(247条)
 8.盗品等に関する罪… 200
  盗品等に関する罪とは/客体/行為/罪数/親族等の間の犯罪に関する特例
 9.毀棄および隠匿の罪… 207
  公用文書毀棄罪/私用文書毀棄罪/建造物損壊罪・同致死罪/器物損壊罪/境界損壊罪/信書隠匿罪

第2編 社会的法益に対する罪  225

第1章 公共危険罪  227
 1.騒乱の罪… 227
  総説/保護法益/騒乱罪(106条)/多衆不解散罪(107条)
 2.放火罪・失火罪… 231
  総説/保護法益/現住建造物等放火罪(108条)/非現住建造物等放火罪(109条)/建造物等以外放火罪(110条)/延焼罪(111条)/消火妨害罪(114条)/失火罪(116条)/業務上失火罪・重失火罪(117条の2)
 3.往来を妨害する罪… 243
  総説/保護法益/往来妨害罪・同致死傷罪(124条)/往来危険罪(125条)/汽車転覆等の罪・同致死罪(126条)/往来危険による汽車転覆等の罪(127条)/過失往来危険罪(129条)

第2章 取引の安全に対する罪  249
 1.通貨偽造の罪… 249
  総説/保護法益/通貨偽造罪(148条)/偽造通貨行使罪(148条)/外国通貨偽造罪・同行使等罪(149条)/偽造通貨等収得罪(150条)/収得後知情行使罪(152条)/通貨偽造準備罪(153条)
 2.文書偽造の罪… 256
  総説/保護法益/形式主義と実質主義/文書の意義/偽造・変造の概念/詔書偽造罪(154条)/公文書偽造罪(155条)/虚偽公文書作成罪(156条)/公正証書原本等不実記載罪(157条)/偽造公文書等行使罪(158条)/私文書偽造罪(159条)/虚偽診断書作成罪(160条)/偽造私文書等行使罪(161条)/電磁的記録不正作出・供用罪(161条の2)
 3.有価証券偽造の罪… 281
  総説/保護法益/有価証券偽造罪・虚偽記入罪(162条)/偽造有価証券行使罪(163条)
 4.支払用カード電磁的記録に関する罪… 286
  支払用カード電磁的記録不正作出・供用・譲り渡し等の罪(163条の2)/不正電磁的記録カード所持罪(163条の3)/支払用カード電磁的記録不正作出準備罪(163条の4)

第3章 風俗に対する罪  290
 1.公然わいせつ、わいせつ物頒布等及び重婚の罪… 290
  公然わいせつ罪(174条)/わいせつ物頒布等罪(175条)、重婚罪(184条)
 2.賭博及び富くじに関する罪… 298
  賭博罪(185条)、常習賭博及び賭博場開張等図利罪(186条)、富くじ発売等罪(187条)

第3編 国家的法益に対する罪  315

第1章 国家の存立に対する罪  317
 1.内乱罪… 317
  総説/内乱罪とは/目的と暴動/共犯
 2.外患誘致罪… 321
  外患誘致罪とは/外患誘致行為

第2章 国交に関する罪  322
 1.外国国章損壊等罪… 322
  外国国章損壊等罪とは/外国の国旗その他国章/損壊・除去・汚損
 2.私戦予備・陰謀罪… 324
  私戦予備・陰謀罪とは/外国・私的に戦闘行為をする目的

第3章 国家の作用に対する罪  325
 1.公務執行妨害罪・職務強要罪… 325
  公務執行妨害罪・職務強要罪とは/行為の客体=公務員/公務の範囲/「職務を執行するに当たり」の意義/職務の適法性/職務の適法性の判断基準/適法性の錯誤/暴行・脅迫/罪数/職務強要罪
 2.単純逃走罪・加重逃走罪… 333
  単純逃走罪・加重逃走罪とは/主体/行為/加重逃走罪/逃走罪等と共犯
 3.犯人蔵匿等罪・証拠隠滅等罪・証人等威迫罪… 337
  犯人蔵匿等罪・証拠隠滅等罪・証人等威迫罪とは/犯人蔵匿罪と犯人隠避罪/「罪を犯した者」の意義/犯人蔵匿等罪と共犯/身代わりと犯人隠避教唆罪の成否/証拠隠滅等罪/行為/証拠隠滅等罪と共犯
 4.偽証罪… 348
  偽証罪とは/主体/行為/偽証罪と共犯
 5.虚偽告訴罪… 352
  虚偽告訴罪とは/行為/故意・目的
 6.職権濫用の罪… 355
  公務員職権濫用罪/特別公務員職権濫用罪/特別公務員暴行陵虐罪
 7.賄賂の罪… 359
  総説/賄賂罪の各則/贈賄罪(198条)/没収・追徴(197条の5)

事項索引…382
判例索引…387

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ケース・スタディ/ティー・タイム  目次
 
●ケース・スタディ
 1 嘱託殺人罪…52
 2 危険運転致死傷罪…56
 3 未成年者略取罪…110
 4 住居侵入・名誉毀損罪…114
 5 強盗致傷罪…212
 6 詐欺罪…219
 7 現住建造物放火罪…303
 8 私文書偽造罪…309
 9 公務執行妨害罪…371
 10 犯人蔵匿・証拠隠滅罪…376
●ティー・タイム
 まさか!こんな事が?(1)―え!27年前のロス疑惑で三浦さん逮捕?…15
 まさか!こんな事が?(2)―「独立法務官」現る…73
 まさか!こんな事が?(3)―日曜大工は犯罪者の証(あか)し?…85
 まさか!こんな事が?(4)―特捜検事が証拠隠滅!――故意か過失かで
 生死が決まる――…345

 

ティー・タイム まさか!こんな事が? (1)

ティー・タイム まさか!こんな事が? (1) 

え! 27年前のロス疑惑で三浦さん逮捕?

 「事実は小説よりも奇なり」とはよくいわれる言葉です。実際、思わずそう叫びたくなるような刑事事件が起こります。ティー・タイムでは、刑事弁護人としてあるいはマスコミの解説者として、私のかかわった刑事事件から、特に選りすぐりものを4つ選んで紹介しましょう。
 リーン・リーン・リーン。2008年2月23日の午後11時頃、ひどい風邪をひき、薬を飲んで寝ていたところに突然携帯のベルがうるさく鳴った。意識もうろうとしながら通話ボタンを押したとたん、はっきりとした女性の声で「先生、朝日新聞のIですが、三浦さんがサイパンで逮捕されました」。「え、三浦友和がどうしたって?」と聞き返した。「先生、しっかりしてくださいよ。三浦和義さんですよ。あのロス疑惑の」。「え、百恵ちゃんの旦那じゃないの?」「違いますよ。」「えーと、ロス疑惑、ロス疑惑?。」と何回か復唱し、ようやくかすかにその事件が頭に浮かんできた。「え!なんで、今頃、あの三浦さんがサイパンで逮捕されるの?」と驚いて尋ねたところ、彼女は「それを私は聞きたいんですよ」と、逮捕までの経緯を説明してくれました。この終わり頃にようやく意識が半分戻ってきました。
 I記者は、突然大きな事件を運んできては、私の好奇心と研究心を刺激してくれます。確か最初は、2001年2月に起こった有名な「えひめ丸」事件だったと思います。ハワイに飛んだ彼女が、シアトルにいる私に対し電話で、原潜のワドル艦長に対する「査問会議」(“Court of Inquiry”)の行方を質問してきました。それにしても縁というのは不思議なものです。
 I記者の疑問は次の3つです。第1に、米国では公訴時効はないか?第2に、逮捕状は有効か?第3に、日本で無罪の確定判決があるから、一事不再理に反するのではないか?さっそく悪寒で震える体に鞭打ちながら、カリフォルニア州(以下「カ州」という)法を調べ、なんとか制限時間内に回答しました。I記者の記事は朝刊の紙面を大きく飾ったので(2008年2月24日朝日新聞朝刊)、その後、ジェンキンスさんのとき以上にマスコミが私のところに殺到し、風邪どころではなくなりました。
 ところで、ロス疑惑は古い出来事で、知らない人も多いと思いますから、簡単に説明しましょう。1981年11月、三浦さんと妻がロサンジェルス(以下「ロス」という)の駐車場で銃撃され、妻は意識不明の重体、三浦さん自身も負傷しました。三浦さんはもちまえの弁才で米軍の協力をとりつけ、妻を日本に搬送させ、大学病院に入院させたが、彼女は死亡してしまいました。その後、銃撃事件は三浦さん自身が仕組んだものではないかとの疑惑が浮上し、警視庁に殺人罪で逮捕され、東京地裁に起訴されました。一審は有罪、二審は無罪とされ、検察官が最高裁に上告したが、2003年3月、棄却により無罪判決が確定しました。
 I記者の3つの質問について、私は、ロス疑惑の舞台はカ州のロスなので、同州の刑法と刑事訴訟法この両者は、同一のPenal Code(刑法典)内にあるに基づいて考える必要があると説明してから、次のように回答しました。第1、第1級謀殺罪について時効はありません。その他の殺人について時効はあるものの、犯人が州外や海外に逃亡した場合、日本と同様に時効は停止します。三浦さんについては、いずれにしても事件後まもなく日本に帰国しているので時効は成立しません。第2、逮捕状の更新は必要ないから有効です。第3、各州と連邦は独立国と同じだから、原則的に、一事不再理の効力は裁判があった当該州法域内あるいは連邦法域内にしか及びません。三浦さんに対する前記銃撃事件の確定判決は日本の裁判所のものだから、カ州には及ばず、一事不再理には違反しないと思います。
 このとき、私にはそれらの回答は間違いないと考えました。しかし、一事不再理の問題について、数日後調べてみて唖然としました。それは、前記刑法典によれば、2004年までは、一事不再理を規定した656条(公判中)と793条(公判前)とに、他国(another country)で、ある行為(an act)について判決を受けたときは、その行為(同一の行為)について審理あるいは訴追できないとされていました。ところが、2005年からは改正により、他国がなくなっていたのです。ということは、三浦さんの日本での無罪判決が確定したのは2003年ですから、少なくともカ州の裁判所でも一事不再理の主張はそれまでは通用したことになります。でも今はそれが削除され、ありません。さあどうなる?
 ここで新法を遡って(遡及的に)適用できるかという問題が生じました。簡単に結論だけをいえば、一事不再理は原則的には刑事手続の問題であり、1988年逮捕状発付の際に、検察官は訴追請求状を裁判所に提出し、訴追はすでに係属した状態になっているので、遡及的に適用できると考えました。その上、たとえ遡及的に適用できなかったとしても、逮捕状に記載された被疑事実のうち、共謀罪については日本刑法にはないので日本でも審理されておらず、それについては少なくとも一事不再理の一事(同一の行為=犯罪事実)にあたらない。また日本の共謀共同正犯論によってもカバーできないところが残る(たとえば、共謀罪では、共謀者と実行行為者との間の因果関係は不要)と考えたわけです。この考え方は後にロス検察の主張ときわめて近いことがわかりました。
 このように、私がああでもないこうでもないと思案を巡らしているうちに、日本のマスコミは一斉にサイパンに飛びました。I記者も例外ではありません。美しいリゾート地は降ってわいたような三浦フィーバーで大混乱です。拘置所前には日本のTV局のテント村ができ、検察や弁護士事務所には日本人記者が張り付き、とうとう「一事不再理」(“Double Jeopardy”)と書かれたTシャツまで売りだされるしまつです。サイパンの住民は「まさか!こんな事が?」起きるとは夢にも思っていなかったことでしょう。
 この点はサイパンの裁判所でも同じではなかったでしょうか。三浦さんは逮捕の当初から一事不再理を主張しましたから、これをどのように処理するかはむずかしい問題です。当初、サイパンの裁判所は逮捕後の手続の進行予定に「予備審問」(“Preliminary Hearing”)を設定しましたが、これは間違えでした。それは刑事手続のための起訴手続の1つだからです。三浦さんの逮捕は身柄の移送のために行われたので、本来なら移送手続のための審問を設定するはずのところです。裁判所もそのことに気づき、後に予備審問を取消し、移送のための審問に差し替えました。
 こうして三浦さんはサイパンの裁判所で、数か月にわたり全力で「一事不再理」を争いましたが、結局、犯罪地のロスに移送されることになりました。相撲は土俵、ボクシングはリング、サッカーはピッチの中で行うもの。場外乱闘でいくら頑張ってみてもエネルギーを損するだけです。裁判はお金も労力も精神力も大変使うものですから、一事不再理などの主張も判断する権限のある裁判所の前で、手続の進行をにらみながら、もっとも有効な時にタイムリーにすべきです。
 この意味では、三浦さんはサイパンでエネルギ―を無駄に使ってしまったような気がしてなりません。実際、2008年10月10日、三浦さんはロスに移送され、拘置施設に収容された後に自殺したとされています。ロスの裁判所に「最初の審問」(“Initial Appearance”)のために出廷する前日のことです。始まりも劇的ですが、終わりも劇的な事件でした。

 

ティー・タイム まさか!こんな事が? (2)   「独立法務官」現る

ティー・タイム まさか!こんな事が? (2)  「独立法務官」現る

 北朝鮮による拉致被害者は、今でも大変な苦労をされています。その1人に曽我ひとみさんがいることは皆さんもご存じでしょう。曽我さんは1978年にお母さんのミヨシさんとともに拉致され、北朝鮮でジェンキンスさんと結婚し、生活していました。その後、曽我さんは、日本政府の計らいで日本に帰国し、故郷の佐渡で生活することになりました。
 ジェンキンスさんはアメリカ陸軍の元軍曹で、1965年に板門店から10kmの軍事境界線付近をパトロール中に姿を消したとされています。その後、北朝鮮にいることが確認され、米陸軍により脱走兵として追及される立場にありました。そのため、ジェンキンスさんを来日させ、曽我さんとともに佐渡で生活してもらうには、多くの支障が予想されました。
 しかし、何とか2人を一緒に佐渡で生活させてあげたいという日本国民の声も高まり、ジェンキンスさんは北朝鮮から解放され、2004年7月にインドネシアのジャカルタに到着しました。ジャカルタが選ばれたのは、アメリカとインドネシアとは犯罪人引渡し条約が締結されていないため、ジェンキンスさんの身柄がアメリカに移送されることはないからでした。
 この事件に関し、私にマスコミから最初に電話が入ったのはこの頃でした。「ジェンキンスさんは日本に入国してからどうなるのですか?」これは本当にむずかしい質問でした。考えた末、私の答えは、「飛行機がインドネシアの領空を出たところで日本の当局者がジェンキンスさんを逮捕することはない」でした。そんな事をすればこのスキーム全体が意味なくなりますし、米軍により合法的に韓国に派遣された米軍兵を、たとえ脱走兵であったとしても日本の当局が逮捕するには、法的根拠を見つけるのがむずかしいと考えたからです。したがって、問題は、ジェンキンスさんが日本入国後どうなるかです。
 2004年7月18日、日本入国後ジェンキンスさんは、すぐ東京女子医大付属病院に入院しました。そこに現れたのは、「独立法務官」なる人物でした。確か、2004年8月5日のことだったと思います。以後、この独立法務官がジェンキンスさんの軍法会議の終了まで大きな役割を演ずることになりました。私のところにマスコミが殺到しました。日本にはアメリカの軍事司法制度について研究している人がほとんどいないためでしょう。
 しかし、私にとってもそれは初耳で、軍事司法制度に関する基礎法である「統一軍法」(“Uniform Code of Military Justice”)を調べても、米空軍横田基地にいる知り合いの法務官事務所職員に聞いても、それにあたる英語の官職はわかりません。そこで、その官職についてはよくわからないと断った上で、「ジェンキンスさんがしかるべき米軍基地に出頭し、軍事裁判を進めていく上で中心になる立場の人である」とか、「米軍の司令官との間で司法取引を進める立場の人である」とか、今、考えるとずいぶん曖昧な答えをしてしまいました。
 その頃、「司法取引」という言葉とともに「独立法務官」という言葉がマスコミ上を我がもの顔にかっ歩していました。私ははやく独立法務官の正体と役割を知らなければとあせりました。そんなある朝、ふと気づきました。「独立法務官」は日本語の訳語名なのだから、それはオリジナルの英語では何といったのだろうかと。さっそく、マスコミの関係者に尋ねてみましたが、皆一様に日本語名しか聞いていないと答えました。そこで、どうにかしてそれを調べてくれないかと頼んだところ、数日してあるTV局員から「わかりましたよ」と電話連絡がありました。そして「Independent Army Defense AttorneyのCPT. Jimmie D. Culp」と続けました。「なーんだ。それは『陸軍の公設弁護人』の『カルプ大尉』の意味だ」と私はいいました。
 英語名を知ると、当然だという気がして、急に力が抜けてしまいました。アメリカの刑事手続で被疑者に最初に付与される重要な権利は何かというと、黙秘権と弁護人依頼権です。これから、ジェンキンスさんは米軍による刑事手続に立ち向かおうとするわけですから、まず彼に陸軍の公設刑事弁護人が付与されたのです。これは刑事訴訟法を研究する者の「いろは」です。「独立法務官」なる言葉に振り回された自分が恥ずかしくなりました。
 どこの誰が「独立法務官」なる訳語を作ったのかはわかりません。しかし、誤訳ではないが、不適切な訳語です。軍の法務官には、裁判官、検察官、弁護人がおり、裁判官と弁護人については、軍事裁判の遂行上自由にその職をまっとうさせるために、軍の司令官による指揮命令系統から外してその独立性を保障しているのです。それが「Independent」で、これは軍事裁判手続に特有なものです。
 このこと以来、アメリカの事件について質問がきたとき、私はできるだけ、オリジナルの英文の書面等を送付してもらうことにしました。皆さんも外国のことを理解し、学ぼうとするとき、ぜひまず自ら原典にあたってくださいね。そうすれば、そこから事柄の真の姿が浮かび上がってくるはずです。
 最後に、私は米陸軍座間キャンプで、ジェンキンスさんの軍法会議を見ましたが、そのときの曽我ひとみさんの態度や証言はジェンキンスさんを思いやりつつも威厳に満ちたもので大変感銘を受けました。一日でも早く、お母さんのミヨシさんを彼女のところへ帰してあげたいですよ。