島伸一教授によるたのしい刑法講座
島伸一教授の編著「たのしい刑法Ⅰ総論」「たのしい刑法Ⅱ各論」を使って刑法・刑事訴訟法を楽しもう

 

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はしがき

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 なぜか刑法というと、むずかしく、とっつきにくいものとの感じが先にたちませんか。私が大学ではじめて刑法の講義を聞いたときの印象を、今でもはっきりとおぼえています。「これから大変なことをやるんだ」という気持ちで気分が暗くなりました。そして、刑法の教科書を読もうとして「うんざり」しました。罪刑法定主義だの構成要件だの法益保護だの、いきなりわけのわからない語句が呪文のようにところ狭しとならび、「なんだこりゃ。さっぱりわからないや!」。それからずいぶん年月がたち、刑法を教える立場になってしまいました。わずかながらも刑法がわかってくると、実は「刑法を知ることはとてもおもしろく、役に立つことなんだ!」と感じてきました。だから、教え方さえ工夫すれば、刑法に対して一般の人々がもつ先入観を打ち破って、もっと早く、このおもしろくてタメになる刑法を知ってもらえるのではないだろうか。これが本書を作ろうとしたきっかけです。
 特に最近は、大学での刑法の講義が、1年生あるいは遅くても2年生のときから始められるようになり、高校を卒業してまだ法律について右も左もわからないうちに複雑な刑法学の体系を学び、理解しなければなりません。たとえていえば、日本の登山家がヒマラヤの未踏峰に挑むようなものです。だから、高校の授業から大学の講義にうまく乗り移れるような橋渡し(サポート)が必要です。これは、未踏峰をよく知っている地元の有能なガイドやシェルパなどの心のこもったサポートがなければ、登頂がおぼつかないのと同じです。刑法を学ぶ場合、サポートとしてもっとも重要なのは、先生の講義と教科書でしょう。はたしてこの本が、本当にこれから刑法という未踏峰に果敢に挑もうとする皆さんのかけがえのないガイドになり、登頂を成功に導くかどうかはわかりません。しかし、私たちは、わかりやすくするためのさまざまな工夫をして、しかも楽しみながら刑法を学べるようにすれば、きっと登頂に成功してくれるという同じ思いで、本書を作りました。
 そこで本書の読者としておもに想定したのは、大学に入学し、はじめて刑法を学ぼうとする学生です。でも、なにも刑法を知る必要があるのは学生に限りません。社会人だって同じです。狂信的な宗教集団や暴力団などによる組織犯罪、少年による凶悪な殺人事件、精神異常者による連続殺傷事件、総会屋への利益供与事件、企業と官僚や政治家との癒着による贈収賄事件そして談合事件、脱税事件など、すべて刑法に関係します。刑法を知らなくては、社会を理解できませんし、運が悪ければ事件に巻き込まれかねません。本書は、やさしく、わかりやすく、しかも楽しめるように刑法を説明していますので、はじめてあるいは忘れてしまった刑法を学ぼう、思い出そうとする社会人にもぴったりです。
 しかし、そうだからといって、説明のレベルを下げたわけではありません。大学の法学部生のためには十分すぎる「量」と「質」をもっています。しかも、とかく日本の学生に欠けるといわれる論文作成能力を養うため、特に[ケース・スタディ]をもうけました。そして、執筆者は、今、各担当分野の第一線で活躍中の研究者と実務家ですから、現在の最新の考え方を知ることができ、司法試験の受験生や法科大学院の未修者コースの院生にとっては最適の教科書や副読本、また高度なレベルを求める法学部の3、4年生のゼミ教材などにもなるはずです。
 2009年からは、いよいよ一般市民の参加する裁判員裁判がスタートしました。裁判員の方にはもちろん、裁判員候補者である一般市民全員の必読書としても好適なものです。
 本書では、わかりやすく説明するため、できるだけむずかしい用語、語句、文章はさけて、専門用語の使用も必要最少限度にとどめました。説明は、与えられた問題について、原則として、通説・判例あるいは有力説によればどのようになるかという考え方の大きな道筋をたどることに重点をおきました。このため、文献等の引用も重要判例と刑法判例百選Ⅰ[第6版](本文中[百選〇〇事件]と引用。改訂時に、第6版に事件番号を変更しました)に限らせていただきました。その他、各章の最初にそこで説明しようとする事柄の全体像を[キー・ポイント・チャート]で示し、各節のむずかしい部分には、[図表]を入れて理解の手助けにしました。
 また、楽しく学ぶために、[イラスト]、[コーヒー・ブレイク]を適宜挿入したり、紙面のレイアウトをはなやかにするなどして、全体の構成をバラエティにとんだものとしました。紙面も2色刷にし、タイトルおよび重要語句等については色で容易に記憶に残るように配慮しました。以上のように盛りだくさんのユニークな企画で、わかりやすい「たのしい刑法」になったのは、執筆者全員が会議をかさね、アイデアと特殊技能を出し合った結果です。
 さらに、読者からの要望が強かった『たのしい刑法Ⅱ各論』も刊行されたので、それにあわせ、本書のタイトルを『たのしい刑法Ⅰ総論』と改めました。しかし、基本的な考え方・内容は『たのしい刑法』の[初版][第2版]を受け継いでいますので、実質的には本書は『たのしい刑法』の[第3版]にあたります。
 本書の刊行に際し、本書からその『各論』へのレファー(参照)を徹底しました。このため、本書を読むかたわらに『各論』も置いておけば、総論と各論を同時に学べ、刑法の理解が深まること請け合いです。
 そのうえ、[ケース・スタディ]と[コーヒー・ブレイク]も1つずつ加え、最新の重要判例や立法の動向までフォローしました。
 最後に、『たのしい刑法』の[初版]から本書の刊行まで、いつも適切なアドバイスときちんとした紙面構成で読みやすく、文字通り『たのしい刑法』の教科書に仕上げてくれた、弘文堂編集部の北川陽子さんに心から感謝いたします。
   2012年2月1日
   島 伸 一
 

目次

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著者プロフィール&メッセージ

第1章 刑法学への招待  1
 序.刑法の学び方… 2
 1.刑法とは何か… 4
  刑法の目的と機能/総論と各論/刑法に関する法規
 2.犯罪と刑罰についての基礎的な考え方…10
  2つの基本的な考え方/「犯罪」とは何か/「刑罰」とは何か/刑罰の具体的内容/執行猶予、仮釈放、保護観察/刑罰をめぐる最近の問題
 3.刑法における重要な原則…28
  罪刑法定主義/法益保護の原則/責任主義
 4.日本の刑法はどこまで及ぶか…41
  属地主義/属人主義/保護主義・世界主義

第2章 構成要件該当性  52
 1.構成要件…53
  構成要件とは何か/構成要件の機能/構成要件の理論/構成要件の種類/構成要件の要素
 2.構成要件該当性…70
  構成要件該当性とは何か/実行行為
 3.不作為犯論…73
  不作為犯とは何か/真正不作為犯/不真正不作為犯
 4.因果関係…81
  因果関係とは何か/因果関係の理論/因果関係の判断/不作為の因果関係/因果関係の判例

第3章 違法性  106
 1.違法性の基礎…107
  違法性とは何か/形式的違法性論と実質的違法性論/主観的違法論と客観的違法論/行為無価値論と結果無価値論/主観的違法要素/可罰的違法性
 2.違法性が否定される場合・・違法性阻却事由…114
  違法性が否定される理由/明文で規定されている違法性阻却事由Ⅰ・正当防衛/同Ⅱ・緊急避難/同Ⅲ・法令行為/同Ⅳ・正当業務行為/明文で規定されていない違法性阻却事由Ⅰ・自救行為/同Ⅱ・労働争議行為/同Ⅲ・治療行為同Ⅳ・被害者の承諾/同Ⅴ・推定的承諾/同Ⅵ・安楽死・尊厳死/同Ⅶ・義務の衝突

第4章 責 任  166
 1.責任とは何か…167
  責任主義/犯罪成立要件としての責任/量刑責任/結果的加重犯と客観的処罰条件/刑罰目的論と責任
 2.責任要素…172
  故意/過失
 3.責任が否定される場合・・責任阻却事由…198
  違法性の意識/責任能力/期待可能性

第5章 未遂犯  220
 1.未遂犯とは何か…221
  意義/予備/未遂犯と危険犯/未遂犯はなぜ処罰されるか
 2.実行の着手…226
  意義/判断基準/主観面の考慮/具体的類型
 3.不能犯…232
  意義/不能犯と未遂犯との区別/不能犯の態様
 4.中止犯…238
  意義/刑の減免の根拠/中止行為/任意性/予備の中止

第6章 共 犯  250
 1.共犯とは何か…251
  意義/正犯と狭義の共犯との区別/共犯はなぜ処罰されるか/共同正犯の特質/共犯の従属性
 2.共同正犯…261
  意義/共同実行の事実/共同実行の意思
 3.教唆犯…266
  意義/客観的要件/主観的要件/間接教唆/幇助犯の教唆
 4.幇助犯…270
  意義/客観的要件/主観的要件/間接幇助
 5.共犯のいろいろな問題…275
  必要的共犯/共犯と身分/共犯と錯誤/共犯の中止と離脱/予備・不作為の共犯

第7章 罪数論  300
 1.罪数論の意義・重要性…301
  罪数論/罪数の数え方/罪数の違いの重要性
 2.一罪か数罪かの具体的区別基準…304
 3.罪数の種類および概念区分…306
 4.本来的一罪…307
  単純一罪/評価上一罪:構成要件的評価の同質的包括性/評価上一罪:構成要件的評価の異質的包括性
 5.数 罪…312
  科刑上一罪(観念的競合・牽連犯)/併合罪/自動車運転事故に関する法改正と罪数について
 6.共犯と罪数…322
  共犯の犯罪の個数/共犯に数罪成立した場合の罪数処理

答案(論文)作成テクニックのポイントⅠ・Ⅱ…324
事項索引…327
判例索引…333

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ケース・スタディ/コーヒー・ブレイク  目次
 
●ケース・スタディ
 1 類推解釈と拡張解釈…44
 2 刑法の場所的適用…48
 3 不真正不作為犯…98
 4 因果関係の相当性…102
 5 対物防衛…154
 6 誤想過剰防衛…158
 7 被害者の承諾…162
 8 事実の錯誤と法律の錯誤…212
 9 原因において自由な行為…216
 10 不能犯/中止犯…245
 11 共犯と錯誤…284
 12 共犯関係からの離脱…288
 13 過失の競合と共同正犯…293
 答案(論文)作成テクニックのポイントⅠ――事例問題…324
 答案(論文)作成テクニックのポイントⅡ――1行論述型問題…325
●コーヒー・ブレイク
 鉄仮面――どうしても解けない謎…25
 夢遊病者は人を殺せるか?…59
 イタリアでなくドイツで良かった?…96
 「わいせつ」って何だろう?…151
 荒川静香選手の「イナバウアー」から学んだ…210

 

コーヒー・ブレイク 鉄仮面 どうしても解けない謎

コーヒー・ブレイク 鉄仮面 どうしても解けない謎 

 コート・ダ・ジュールの夏は、灼熱の太陽と紺碧の海、そして白い浜辺のいろとりどりのパラソル。そんなカンヌの町には、今年も多くの海水浴客がきています。水着を着ているのがやけにやぼったくみえ、多くの女性はトップレスでうまく自然のなかにとけこんでいます。しかし、カンヌ沖には、はなやかな浜辺とは対照的に、ひっそりと浮かぶ小さな島があり、うっそうと茂る樹木のあいだからは朽ち果てた城塞がみえます。ここが、カンヌから船で約15分のサント・マルグリット島です。
 カンヌにくる人々のうち、いったい何人がそこはむかし牢獄島であり、歴史上類を見ない奇妙な囚人のいたところだと知っているでしょうか。たとえ、その島にいっても、あるのはただ、その囚人が拘禁されていた薄暗い監房に、かつて「鉄仮面」がここにいた旨の小さな説明板があるだけです。日本だったら、いたるところにありもしない事を書きならべたてた看板が立てられ、鉄仮面饅頭まで売りだされるのは間違いないのに。ワンポイントのアクセントとは、フランス人は本当にしゃれています。
 その囚人は、鉄仮面を、いや実際には黒のビロードの布を頭からあごのあたりまですっぽりかぶり、死ぬまでそれをとることはありませんでした。そして、死んだときには、顔をぐちゃぐちゃに破壊され、埋葬されたので、結局、彼の顔をみることはできませんでした。もちろん、口をきくことは禁じられ、監禁を命じた国王ルイ14世と数人の側近以外に彼の素性を知る者はいませんでした。その囚人を「鉄仮面」として世に売り出したのは、ヴォルテール、ユゴー、デュマなどの文豪たちです。ヴォルテールによれば、鉄仮面は、年が若く長身で、立ち振る舞いは優美かつ上品だったとされています。鉄仮面が、南アルプスの山間部、イタリアのピネローロにあるピネロル要塞の牢獄からサント・マルグリット島へ連れて来られたのは1687年の冬、そして1698年の夏にバスチーユの牢獄に去るまでの11年間、そこで囚人生活を送りました。
 鉄仮面は、ピネロル、サント・マルグリット、バスチーユと、当時のフランスでもっとも警戒の厳重な第1級の牢獄を渡り歩きました。彼は、不思議なことに、そんなうっとうしい仮面をかぶせられて、息も詰まるような生活を強いられているというのに、牢獄からまったく逃げ出そうとはしませんでした。むしろ牢獄生活を楽しんでいるかのようでした。超人的能力で脱獄に成功した天才的脱獄囚の話はいくつかあります。たとえば、スティーブ・マックイーンの主演映画でおなじみの「パピヨン」とか、日本では、吉村昭の小説「破獄」の主人公佐久間清太郎(仮名)です。しかし、鉄仮面をかぶされても、彼らとは反対に、まったく脱獄をこころみず、悠々自適の牢獄生活を過ごした囚人の話はこれしかありません。厳しい境遇のなかでそのような生活を送れる鉄仮面のほうが、彼らよりも超能力者に思われてくるから不思議です。
 鉄仮面の牢獄生活は大変特異なものでした。彼にはつねに極上の品が与えられ、彼がもっとも好んだのはやわらかな絹の肌着とレースの飾りでした。テーブルにはきれいなクロスがかけられ、食事は銀の食器でサービスされました。そして、監獄の下士官はむろんのこと司令官までも彼に接するときには直立姿勢をくずしませんでした。陸軍大臣のルヴォア侯爵が監獄の警備状況を視察にきたとき、彼さえ鉄仮面の前では腰をおろさず、非常な敬意を表していたそうです。牢獄内での彼の警戒・管理にはつねにサン・マールというひとりの司令官とその部下があたり、彼らはその囚人が移監するときには護送の任務もつとめました。しかし、司令官自身も彼が何者であるかを知りませんでした。
 国王が秘密を隠そうとすればするほど、世の人々は秘密を知りたがるものです。かくてその奇妙な囚人のうわさはフランス中に広まり、文豪たちの登場となりました。鉄仮面の正体については、まさに百家争鳴です。代表的な説としては、①ルイ14世がイギリス国王をだますために送り込んだイタリア人僧侶が任務に失敗し、帰国後とらえられたという説、②ルイ14世をだまそうとしたイタリア人外交官説、③イギリス王チャールズ2世の隠し子だと名乗り、ローマカトリック教会をだまそうとしたイギリス人説、④ルイ14世の怒りをかった大蔵大臣説、⑤兄と喧嘩したために拘禁されたルイ14世の腹違いの弟説、⑥ルイ14世が身の安泰を図るために拘禁した、庶子の兄説(ヴォルテール)、⑦同様の理由から拘禁された、双子の兄説(デュマ)、そして最近では、⑧ルイ14世こそ庶子で、この出生の秘密をたねに彼をゆすろうとした異母兄説まで唱えられています。これらの説はいずれももっともらしい理由づけがおもしろおかしくなされています。
 しかし、どうしても解けない謎が残ります。それは、なぜそこまでして生かしておかなければならなかったか、ということです。最近の研究では、鉄仮面は、1630年代後半に生まれ、ほぼ30年後(1669年ごろ)に身柄を拘束され、1703年11月19日に死亡したとされています。そうすると、約34年間もの長い間、拘禁されていたことになります。生かしておくということは、その間、絶対に知られてはならない秘密が暴露されるという危険をつねに負担することになります。はたして、権力の亡者たちがそんなばかなことをするでしょうか。いつの時代、どの国でも権力者たちは、保身のためには人を殺すことなど、ハエを殺すようにいとも簡単に行ってきたのですから。
 

コーヒー・ブレイク 夢遊病者は人を殺せるか?

コーヒー・ブレイク 夢遊病者は人を殺せるか?

 ケルトン博士は、ベッドに近よって、毛布をめくって見下ろした。血みどろのシーツの上に、灰色に変わった顔面を硬直させ、うつろな目をかっと見開いた死体があった。博士は指で、死体の頚部を押してみてから、メイスンをふり返っていった。「ペリイ、これは検屍官の仕事だ……それから警察の」 ペリイ・メイスンは大声で命令した。「全員、この部屋を出ること。殺人が行われた。」
 これは、弁護士ペリイ・メイスンシリーズ(ハヤカワ文庫)のうちの「夢遊病者の姪」(E. S.ガードナー著 宇野利泰訳)の一節です。ペリー・メイスンはカリフォルニア州ロサンゼルスの刑事弁護士で、彼の手にかかるとどんな難事件もあざやかに解決されてしまいます。法廷の傍聴席にいる真犯人を名指しする彼の迫力は、いかなる証拠よりも強力です。夢遊病者の姪事件では、1人の夢遊病者がいるだけだと思われているが、実は2人の夢遊病者がいるのを知った犯人が、彼らをたくみに利用して犯罪を実行したことを法廷であばきます。その事件では、夢遊病者である伯父は、食器棚の引き出しから肉切ナイフをもちだして夢中遊行する習癖があり、またやはり夢遊病者である姪は、伯父のその習癖に対するおそれから、夢中遊行中にその引き出しの鍵をあけてナイフを取り出し、中庭のコーヒー・テーブルに隠す習癖があります。これらの習癖をたくみに利用して犯人(夢遊病ではない)が、ナイフで犯行を実行したわけです。被害者は、眠っているところを2枚の薄い毛布越しに刺し殺されていました。
 はたして、夢遊病者がそのような行動をとれるでしょうか。
 夢遊病は、「夢遊症」、すなわち俗に「ねぼけ」といわれる現象に近く、夢中遊行とも呼ばれています。子供によくみられ、突然起き上がって部屋の中を歩き回り、普通、障害物は避けてとおります。目をひらき、一見目的をもっているかのように歩き回りますが、持続時間はせいぜい数分から10分くらいで、翌朝は記憶していません(南山堂『医学大辞典』より)。しかし、精神医学上の診断分類では、「夢遊病(夢遊症)」と診断される精神病はありません。これに近いものとしては、「睡眠遊行障害」(sleepwalking disorder)があたると思われます。「睡眠遊行障害」とは、次のようなものだとされています(高橋等「精神障害の分類と診断の手引」より)。①睡眠中にベットから起きあがり、歩き回るというような行動の反復で、通常、主要睡眠時間帯の最初の1/3の間に起こる。②睡眠遊行中、患者はうつろな表情で視線を動かさず、睡眠遊行に影響を及ぼそうとしたり、話しかけても比較的反応しない。目をさまさせるのは極めて困難である。③目をさましたときには記憶を失っている。④睡眠遊行からさめて数分以内でも精神活動または行動の障害は何も見られない(はじめに短時間の困惑または見当を失うことはある)。
 日本では、「夢遊病」状態での異常行動についてまだ事例報告はないようなので、ふらつきながら障害物を避けてとおる以上の行動が可能かは明らかでありません。しかし、精神医学の専門家によれば、どうも殺人や傷害を行うのは次の理由から無理のようです。夢中遊行中、平衡感覚や運動能力は維持されますが、その能力は通常よりもかなり劣った状態になります。人をナイフで傷害したり、殺害したりするためには、通常でもかなりの物理的な力が必要ですから、夢中遊行中そこまでの力は入らないと思われます。そもそも凶器をにぎるだけの握力があるかさえ疑問のようです。また、その持続時間はせいぜい10分以内といわれていますから、この点でも計画的な行動は無理のようです。したがって、もし夢遊病者の犯罪といわれるものがあったとしても、実際には本来の人格が眠っている最中に他の人格が出現して犯罪を行うという、いわゆる人格解離あるいは多重人格者による犯罪にあたるケースではないかと思われます。
 このように考えてきますと、夢遊病者が夢中遊行中に人を殺すのはほとんど無理であるとの結論になります。もっとも、ペリイ・メイスンの夢遊病者の姪事件では、犯人は夢遊病者でないので、問題はありません。しかし、引き出しの鍵をあけてナイフを取り出したり、それを中庭までもっていってテーブルに隠すなどという、複雑で筋力を必要とする夢遊病者の行動は、現在の医学の常識ではとうてい考えられないでしょう。しかもその事件では、2人もそのような人がいるのですから。日本では、ほとんど症例報告がないというのに。だからこそ、そんな不可解な事件をみごとに解決したペリイ・メイスンの刑事弁護士としての才能が光るわけですね。